

昭和39年、私は大工の棟梁だった父のもとに生まれました。祖父が始めた大工の仕事を継いだ父は、弟子達をビシビシしごきながら、現場から現場へと飛び回っていました。
幼かった私にとって、お弟子さん達はみんな兄貴のような存在。ずいぶん可愛がってもらいましたよ。でも、大変なのは母親でした。多い時には住み込みのお弟子さんが7、8人にもなります。家族の分とお弟子さんの分を合わせて13、4人分のお弁当を、母は毎朝作るのです。しかも夕食も用意しなくてはなりません。
かわいそうだな、といつも思っていました。将来、妻になる人にはこんなことはさせたくない。成長するにつれてプライバシーがないことも不満に感じていました。徐々にその思いは高まり、高校生の頃には「こういう仕事はいやだ」と、はっきり口にするようになっていました。

そんなある日、父が友人に「息子がこう言ってるんだ」と洩らしたと聞きました。さびしそうだったよ。その友人の言葉に、あの滅多に弱音を吐かない父が、と驚くと同時に、やはり俺の代で終らせてはいけないんだなと思いました。そして大学の建築科に進み、設計を学ぶことにしたのです。
設計事務所に勤めた後に家業を継いだ私ですが、当時は、いかにも設計士が手がけたという感じの目立つデザインをすればお客様は来てくれるだろうくらいに、安易に考えていました。ところが待てど暮らせど反応はありません。
「これじゃいかんな」。松美建設が松美建設として、これからも歩み続けていくために必要なものは何だろう。それを模索し始めた私の脳裏に、ふと浮かんできたのが祖父と父の大きな背中でした。